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更新日:2018年04月28日

【国際学部】リレー?エッセイ2018(2) 木戸雅子「ギリシャの春の祭り 『パスハ(復活祭)』」

ギリシャの春の祭り 「パスハ(復活祭)」

木戸雅子


 今年のギリシャ正教の復活祭(パスハ)は4月8日(日)でした。3月末からギリシャに研究調査のために滞在し、久しぶりに春爛漫のギリシャの春の祭りを味わいました。この祭りにまつわる私の思い出とギリシャの春の気分をお届けします。



 復活祭は移動祝日で、春分後の最初の満月の次にくる日曜日に祝われます。カソリック教会とギリシャ正教会では年によって同じ日曜日になることもありますが、ほとんどずれています。今年もカソリック教会の復活祭は4月1日でした。何故この違いが起こるかといえば、ギリシャ正教会が太陰暦(ユリウス暦)を使っているからです。ギリシャでは、クリスマスよりも復活祭が盛大に祝われます。パスハの日曜日をはさむ数日間は仕事を休み、故郷に戻るので、日本のお盆のように交通機関は大混雑します。復活祭はおおよそ4月から5月の初めまでの間にあるので、野山に花が咲き乱れる一年で一番美しい季節でもあり、まさに生命の再生を感じさせる祭りです。誰もかれも明るく幸せそうに「おめでとう」と挨拶を交わします。


 私がこのギリシャのパスハを最初に体験したのは、ギリシャ政府給費留学生としてギリシャへ行き、最初にギリシャ語を学んだ北の町テサロニキにある大学の寮で知り合った友人ミナの田舎の家でした。ミナは中央ギリシャの港町ヴォロスにほど近いヴェレスティノという村の出身で、ギリシャ人学生ばかりが住む寮がパスハの休暇中に空っぽになり、私が一人取り残されるのを心配して家に招待してくれたのでした。今から45年も前の話ですから、ミナの村の人々は日本人など見たこともないし、そもそも日本がどこにあるのかもわからない、そこに日本の女学生がやってきたのですから、それはもう興味津々で手厚くもてなしてくれました。


 ここで過ごした10日ばかりの休暇で、私はギリシャ人たちの日常生活、年中行事、風習、家族や親せきの関係等々、さまざまなことを直に見聞きすることができました。テサロニキ大学でのギリシャ語の授業を半年受けた後のことで、文法は一通り終えてはいたもののまだ話すのはなかなか難しかったのですが、この休暇を終えて帰る頃には「マサコはすごい、パスハの間にギリシャ語を話せるようになった、来た時は何にも言えなかったのに」と称賛されたことを覚えています。毎日同じことを何度も聞かれて話して、話して、話しているうちに確かに休暇が終わるころには話せるようになっていました。この経験から海外へ留学する人たちには、外国での語学習得は「石の上にも三年ならず、半年」と、言うことにしています。


 さて、現在でもギリシャ人の97パーセントはギリシャ正教徒と言われていますが、45年前は今よりもずっと宗教が生活に根付いていました。復活祭前の一週間は受難週といって、キリストのエルサレム入城を記念する「棕櫚の日曜日」から「逮捕」「拷問」を経て、磔の刑で殺され、墓に埋葬される金曜日の野辺送りの行列の儀式、そして土曜日の深夜日付が変わる日曜日に復活するまでを記念して、毎日教会で祈祷の儀式が行われます。夕刻の儀式に参列するだけでなく、この一週間は断食をします。完全に断食するのではなく肉断ちをするのですが、血の出るものはいけないということで、肉だけでなく牛乳やチーズも食べません。食べて良いのはパン、レタス、オリーブの実、豆スープ、胡麻で作ったお菓子などです。金曜日からはパンとレタスだけになりオリーブオイルもかけてはいけないということになっていました。これをミナの家族と共に私もそのままやったので、慣れていない私の体はむくんでしまい、当時の写真を見るとお月様のように顔が真ん丸です。彼らには一年に一週間断食をすることで体のコルステロールなどを落とす良い機会ともなっていたのでしょう。


 

「埋葬」の儀式後キリストの棺を担いで村中を行列する人々


 ずっと料理らしい料理をしていなかったミナのお母さんが、聖大土曜日には朝から羊の腸を洗って細かく刻み、コトコトとスープを煮はじめました。そのおいしそうな匂いが家に充満し、私の空腹は頂点に達していましたから、そのスープを食べるが待ち遠しかったことといったら。土曜日の夜は9時過ぎから教会へそれぞれ大きなろうそくを手にして参列します。ほぼ3時間教会の中で立ちっぱなしで男声の祈祷を聞き続けます。日が変わる午前0時にキリストの復活を知らせる教会の鐘が鳴り響き、祭壇の方から次々に人々の持つろうそくの火が灯されて、堂内が明るく輝きます。隣の人同士で「オ フリストス アネスティ(キリストは復活された)」「アリソス アネスティ(本当に復活された)」という決まり文句で挨拶を交わします。


 教会で灯したろうそくの火を大切に家に持ち帰るのですが、その間に会う人ごとにおしゃべりをするのでなかなか家に辿りつきません。やっと家に帰って、家族でテーブルを囲み、あの朝から待ち遠しかったスープを頂いたのですが、そのスープが体の中に沁みとおってゆく感覚は今でも鮮明に覚えています。「マギリツァ」という料理で、羊の腸と米とネギを煮込んだもので、味は日本のもつ煮スープといったところでしょうか。次の日は朝から親戚中が集まって庭で太くて長い串に刺した何頭もの子羊を炭火で時間をかけて手で回しながら焼くのです。一週間ほとんど食べていない胃にパスハのご馳走が突然入らないように、このスープで胃を慣らしておくのでしょう。その晩は、やっと終わった断食にほっとして幸せな眠りにつきました。


 45年前のパスハは祭りの初体験というだけでなく、ギリシャ人社会、それも田舎の人々と過ごした貴重な経験となりました。このミナとはその後途切れることなく良い友達として連絡を取り合って親しく付き合ってきましたが、三年前に突然亡くなってしまいました。ミナはテサロニキ大学で英文学を専攻し、実家の近くの都市ヴォロスで高校の英語の先生をしていました。妹のステラも同じ道を歩み、結婚後同じ敷地に隣り合わせで家を建てて住んでいたので、私は妹のステラとも親しくしていました。ミナが危篤だというステラからの連絡を受けて直ぐにギリシャへ向かい、集中治療室にいたミナを見舞いました。結局目覚めることなく亡くなってしまいましたが、その時ステラから「ミナは亡くなってしまったけれど、私との間柄は変わることなくそばにいてほしい。そうでなければ、もう一人の姉も亡くしてしまうことになるから。」と言われ、それ以来スカイプで話したり、ギリシャへ行った時には一日でもなるべく寄ることにしています。


ヴェレスティノ村一番の美女で才媛と評判だったミナの写真とともに、復活祭の置物で飾られたミナのためのテーブル。


ステラの家の居間には至る所に卵のオーナメントがセンス良く飾られている。


 今回もパスハの休暇は迷わず、ステラの家で過ごすことにしました。2003年に8か月間長期にアテネに滞在した時にもヴォロスでパスハを過ごしたので、今回は三回目のパスハということになります。この三回のパスハを通してやはり時の流れを否応なく感じます。二回目の時はミナも元気で、子供たちもまだ結婚する前で、大勢の親戚や友人が集まり庭に人が溢れ、実に賑やかで楽しい春の祭りでした。今回は、その友人たちも顔を出して「おめでとう」と挨拶に来るものの、それぞれ家族が増えて自分の家で祝うためにすぐに帰ってしまい、ステラとミナの子供たちと二、三の友人たちだけの落ち着いたお祝いの会となりました。


庭の奥にかまどと羊の串刺しを自動で回す装置がある。


ミナの娘のマリアと庭で遊ぶ孫のオデュセアス


 何が一番変わったかといえば、皆教会へ行かなくなったということでしょう。受難週の祈祷の式にも参列せず、3時間も立ちんぼをした後に、教会に集う人々の手のろうそくに火が灯されて堂内が輝き渡ったキリストの復活の瞬間に感動した記憶がある私には物足りないくらいでした。2003年の時には車で山の上にある由緒ある教会まで行って、教会の鐘の音とろうそくの光を味わったのに、今回は教会はすぐそこだからと、結局0時になるほんの10分前位に、じゃあそろそろ行く?と言って出かける有様でした。ミナの娘や息子たちはそれもしないくらい信仰とはかけ離れた生活です。ミナたちが大学生時代、教会へ行くのが当たり前で、それが信仰心を持ち合わせていない若き日の私にどれほど印象的であったかを思うと、隔世の感があります。日本でいえば、特に宗教心がなくても初詣にお寺や神社にお参りするような程度になったといえるかもしれません。もちろんあの厳しい断食もしません。多少肉は避けてイカ、タコは食べても良いのよと言っているのがかつての僅かながらの名残です。


 宗教心は薄れたといってもパスハはギリシャ人にとっては大切な祭りで、45年前に食べたもの、「マギリツア」も羊の丸焼きも、羊の内臓を串に刺してそれを長い腸でぐるぐる巻きにした「ココレチ」も、赤く染めた卵を中に入れて焼く甘い「ツレキ」というパン、どこの家でも同じ味で同じ形に焼く「クルーリ」というクッキーも昔どおりに作って食べました。それぞれ結構手間のかかる料理なのですが、それは一向に面倒くさがらずきちんとレシピ通りに作っていました。ギリシャ人は普段から決まりきった料理を食べるのを良しとして元来食には保守的なので、食文化にはあまり新規の工夫というものを好みません。代々家に伝わるレシピ通りに作るので、どこの家に行ってもほとんど同じ味、同じ形状をしています。最近やっとギリシャでも寿司が知られるようになりましたが、それもまだアテネだけのことです。パリやロンドンのように日本料理店がいくらでもあってヘルシーだと日本料理に人気があるのと比べると随分事情が異なります。日本人があまり住んでいないせいでもありますが、それ以上に食文化が保守的だということが一番の理由でしょう。


自動ロースターで炭火焼きされる子羊と「ココレチ」


ステラと夫のヤニスは朝6時から「ココレチ」の準備、ここは地下室の台所


羊の内臓を串に刺した後、その上から羊の腸をくるくると上手に巻いていく。

やってみると結構重くて慣れないと上手く回せない。この内臓料理はEUで禁止されたとのこと。

でもギリシャ人は「彼らはこの美味さを知らないのさ、フン!」とどこ吹く風。確かに美味しい。


焼き上がった羊はパンをこねる木の桶に横たわる


毎年工夫をして色々に染め上げる復活祭に無くてはならない卵。これを作るのも一仕事。

パスハの朝、一つずつこの美しい卵を手に持って割り合うと、どちらか一方だけが割れる。


 パスハの日曜日の後火曜日からほぼ平常通りの勤務となるようですが、学校はその週も休みで2週間の春休みです。パスハが開けると人々の挨拶は「良い夏を」になります。パスハの季節には、ハナズオウの赤い花、ギリシャ語で「パスハリヤ(パスハの花)」というライラックの紫の花、野原に咲き誇る真っ赤なひなげし、カモミールのかわいい白い小花、畑を覆い尽くす黄色い菜の花などが咲き乱れています。一年300日は快晴と言われるギリシャの気候で、夏にはみな野原でそのままドライフラワーになってしまうので、この春の花の季節は特別に美しく感じるのです。51日はメイ?デーのお祭りですが、ギリシャではこの日は「花の祭り」と言っています。野原でピクニックをして野の花で花輪を作り、それを玄関の扉に飾ります。これで春が終わりで夏を迎えることになるのですが、今年はパスハが早かったため5月までもう少し春が楽しめます。


野の花でブーケを作る私の友人で画家のニキ


広大な菜の花畑


パスハの花パスカリヤ(ライラック)が満開



ハナスオウの木。ギリシャでは別名「ユダの木」と呼ばれる。この花が咲くとパスハが始まるからとのこと。

キリストの受難はユダの裏切りから始まるから。


ひなげしの鮮やかな赤とカモミールの白い小花、歩くと足の下からハーブの香りが発ち上がる。


 45年前、15年前、そして今年とギリシャのパスハを経験して時代と共に変わること変わらないことを特に強く意識しました。彼らが全く変わってないことは、よくしゃべることです。本当に話好き。一緒にパスハを過ごせなかった友人や親せきとひっきりなしに電話で話をしています。誰が家に来たか、何を食べたか、どこに行ってきたか等をまるで絵日記のように一部始終話すのです。普段から大声で話すのに電話となるともっと大きな声になり、家のあっちこっちでそれぞれが電話しているので騒がしいことこの上ないのですが、なんだか可笑しくもあります。このおしゃべりは男女を問わずの話です。最近の日本では一人暮らしの高齢者の四分の一の人が二週間以上人と話をしていないという話を聞きましたが、それが統計的に正しいのかどうかは別として、ギリシャではそういうことは起こり得ないでしょう。誰もほっておいてくれない。こういう人たちと大声でおしゃべりをし続けて、日本に帰ってくると、クールダウンをするのに少々苦労します。疲れはしますが、人と人の間柄がとても近く、愛情表現豊かに人と接し、慣れ親しんだ風習や食を守り、議論はすぐに白熱するけれど、思う存分話してあとはさっぱりしている。こういうギリシャ人たちが最近特に人間的に思えて共感を覚えます。よくギリシャ人たちに「マサコは日本人に似ていない」と言われるようになりましたが、確かに以前は日本とギリシャにそれぞれ軸足を置いて立っていたはずなのに、今では自分の重心がギリシャ寄りになっているような気がしないこともありません。


今回の調査研究の目的の一つ、ビザンティン美術学会のメンバーと一緒に現地調査。

学会長で高名なビザンティン美術研究者と仲良く肩を組む私。


 ギリシャが私の研究のフィールドになって数十年たち、研究分野で知り合った研究者とも親しく行き来をさせてもらい友人にも恵まれていますが、今振り返ってみるとギリシャ人社会に最初に導き受け入れてくれたミナとの出会いほど私にとって大切なものはなかったとつくづく思います。ミナという人は分け隔てなく人と付き合い、明るく、好奇心に満ち、いつも何かを学ぼうとする向上心を持つ素敵な女性でした。その証ともいえるのは、ミナの葬儀には、1500人以上もの人が集いヴォロスの主聖堂に人が入りきらなかったといいます。ミナの素晴らしさは今も語り継がれていますが、それと同時にヴォロスでは「マサコ」のことは誰でも知っていると言われています。ミナも典型的ギリシャ人でおしゃべりだったのです。「マサコ」のこと日本のことを皆に話すのが大好きで何でも話していたそうです。


 ミナを亡くした悲しみは消えることはありませんが、ミナとの長い友情の記憶は、美しいギリシャの春の祭りとともに、繰り返し私の中に復活を遂げているという思いを新たにして帰国しました。


ピリョ山の村から眼下にヴォロスの町を見下ろす。

その向こうにエーゲ海が広がる。ピリョ山にはそれぞれ趣を異にする29の村が点在していてギリシャ人に人気の避暑地。




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